香川ランチグループ - KAGAWA RANCH GROUP

コンセプト

CONCEPT

私が歩いた途

美国ヶ池 香川 善太郎

 父(雪之進)は、明治30年代に北海道の開拓者として移住していたが、大正7年に四国へ帰郷、大正15年に母と兄に伴われて川南村三国ヶ池へ移住してきた。

 当時私は10歳で、通山小学校4年に入学した。そして昭和21年に、南方より復員して現在地に入植し、旧軍用地の原野6反歩の配分を受け、同時に民有地5反歩(反当千円)を購入し、開拓農業への第一歩を踏み出した。

 爾来10年間、普通作の農業に従事して来たが、其れでも耕地9反歩を確保し、昭和30年には、水田・畑合わせて2ヘクタールの農家に成長する事が出来たが、生活は依然として楽では無かった。

 そこで、昭和35年に養鶏を取り入れた。たったの150羽であった。其れでも当時としては現金収入の支えに成っていた。

 当時は卵1個の値段は4円で、日雇い労賃は250円であった。

 昭和40年になり、養鶏専業で行く事を決意し、5千羽から始め、暫時規模を拡大し、昭和45年から親子の協業形態に切り替え、昭和47年には農地を6ヘクタールに拡張し、3万羽に漕ぎ着け、現在水田7反歩・畑1.3ヘクタール・養鶏8万羽の念願を達する事が出来た。

 私は只今、長男・次男と共に協業養鶏に明け暮れて居るが、今迄会社に何一つ貢献出来なかった。私に代わって、息子達が、世のため、人の為に、役立つ人間に成ってくれる事を願って居る。

 「開拓」を、狭義に解すると、耕地を開いて田畑にすることであるが、私は、もっと広義に解して、障害物を取り除き広げる事、新しい方面に進路を開く事と解釈したい。

 養鶏専業の前途は多難であるが、開拓精神に従って途を開いて行きたいと思って居る。

 私は胎児の頃から開拓の血が流れて居た。開拓こそ私の信条であり、人生行路の指針であり、家訓として末永く伝えたい。

FRONTIER SPIRIT

~フロンティアスピリッツ~

川南町は全国から人々が集まり開拓されたことから川南合衆国と呼ばれ、フロンティアスピリッツの根付く町です。西に尾鈴連山を望み、東に川南漁港を有する南北に海岸線が伸びる広い盆地です。開拓者精神を持って初代善太郎が香川ランチの礎を築き、その精神を受け継いで未来に向かって進化し続けています。

初代

香川 善太郎

大正15年に四国(香川県)から川南町に開拓農業者の一員として移住しました。昭和38年に150羽から養鶏業を始めました。これが香川ランチのスタートです。
初代善太郎は裸一貫で川南町に土地を求めて、事業を起こしていった「開拓者」。開拓者精神のもと、事業を少しずつ拡大させ、昭和46年には第2農場を建設。その2年後となる昭和48年には農事組合法人を設立し、理事長に就任。同時に坂の上農場を建設します。その後昭和51年に都農農場建設、昭和53年に高鍋農場建設と事業を拡大していき、最終的には8万羽まで飼育数を伸ばしました。

二代目

香川 清

昭和56年に初代から受け継ぎ、2代目として代表者に就任。思い立ったら実行せずにはいられないという性格で、「破天荒で太く短く生きた」という表現がぴったりだとか。行動力や実行力に長け、多くの人から一目置かれる存在でもありました。初代の開拓者精神を受け継ぎ、事業をさらに拡大発展させました。
昭和60年には、農場から卵を生産工場に送る インラインシステム化 を実現しました。翌年には原料生産販売形態から、製品地場販売へと事業を展開し、念願だった香川ランチの法人化を実現させます。また、平成7年には、鶏卵加工を目的とする「宮崎デリカフーズ」を設立しました。平成16年には鶏肉加工の会社「美国フーズ」を設立し、現在の香川ランチグループの基礎を築きました。

三代目

香川 憲一

平成16年に3代目として代表者に就任。平成15年に大分事務所を設立し、その2年後には別府事務所を設立しました。3年後の平成20年に福岡事務所を設立と、県外での営業活動に力を入れ始めます。平成22年には美国フーズと宮崎デリカフーズの代表取締役にも就任しました。平成25年には、かねてから希望していた新社屋を新築、移転を果たし、機械化されたGPセンターを設立、G-NAEGS4000を2台導入しました。
香川ランチの卵や鶏卵加工品、鶏肉加工品の美味しさを多くの人に知ってもらうための場所として物産館「善太郎屋」もオープンさせ、生産から、製造、販売までの農業の6次産業化も進めています。
また平成29年には、新農場を建設し、飼育環境の快適性に配慮したエンリッチャブルケージシステムを導入しました。